空に星が見えなくても

少しずつ成長していけたらいいなあ

拝啓 V6様へ

26周年、おめでとうございます。

6人が欠けずに過ごしたその年月にただただ感謝と尊敬です。

 

なんて、お手紙風に始めてみましたけれど、私のV6に対する振り返りです。

11月1日のラストライブを見るまでの間、まとめようかどうしようか迷っていたのですが、そんな暇がなかった。それくらい、V6は私たちに絶え間なくいろんなプレゼントを届けてくれた。だから、こうして全てが終わった今、文章を認めているのです。

ただ、ただ、寂しい。

幸せなのに、寂しい。

この寂寥感はいつか拭えるのかしら。

 

私がV6に出会ったのは小学生の頃。構成するメンバーの一人一人の名前は知らなくともグループ名は知っていた。

それくらい、日常にV6はいました。

「WAになっておどろう」とか「ウルトラマンティガ」とか「学校へ行こう!」とか。学校に行けば、クラスメイトたちからそんなワードが飛び交っていました。

母がドラマ「コーチ」が好きで一緒に見ていたのもぼんやり記憶に残っています。「あの子、ジャニーズなのに演技上手なのよね」と井ノ原くんのことを褒めていました。

父は「ジャニーズはちゃんと服を着ないから好きじゃない」なんてMステを見ている時にコメントしていたのを覚えています。確かに、上半身裸にジャケット引っ掛けているスタイルでしたものね。うーん、服をちゃんと着ていない、と幼いながらに思いました。ちょっと恥ずかしいぞ、と。

弟が昆虫と野球にハマっていた頃。確か24時間テレビかV6がパーソナリティをしていました。ナイナイとクワガタか何かを取りに行っていたんですよね。なんだかそれを夢中で見ていたのをぼんやりと覚えています。(違ったらすみません)

まあ、そんな感じで私の日常にはV6がいたんですよね。

小学校5年生の時、クラス替えをしてV6が好きだという子と友達になりました。彼女は「森田剛くんが一番かっこいいよ」と下敷きだったか、何かを見せてくれました。それからちゃんと「学校へ行こう!」を見るようになりました。私は、三宅健くんが可愛いなと思って好きになりました。犬夜叉のOPテーマも歌っていた頃ですね。初めて自分で買いに行ったCDは「愛のmelody」でした。ドキドキしました。両親にV6の話題を出されると顔が熱くなって、あんまり語りたくなかった、あの微妙な心境を今でも鮮明に思い出します。

それから三宅くんは「ネバーランド」というドラマに主演として出演します。言わずもがな毎週しっかり見てました。もうその頃には立派にV6のファンです。自ずとV6の番組をしっかりと見るようになって、ちゃんと顔と名前が一致するようになりました。弟と「お笑いV6病棟」のコントを毎日見て転がって笑っていました。

小学校 6年生の夏休み。人生で初めて原宿のジャニーズショップへ行きました。ジャニーズショップに入るまですごい行列で、何かのために並ぶなんてディズニーランド以外にあるんだと新鮮な気持ちになりました。日照りが強くて、木陰に入ると涼しいけれど、ホームレスのおじさんのダンボールハウスがあったり。東京って怖いとこだわ、なんて思ったかもしれません。ジャニーズショップはびっくりするほど狭くて。その狭い空間にぎゅうぎゅうに写真が貼られていました。番号を書く紙を持ちました。汗に湿った紙に丁寧に番号を書いていきました。ついでにだったのかな。カレンダーも買いました。帰りの電車で黄色い袋が幸せの象徴みたいに手元で揺れているのをすごく覚えています。

カレンダーには個人のプロフィールが載っていました。今ほど簡単にインターネットが見れる環境ではなかったので、まじまじと個人のプロフィールを眺めました。確か足のサイズとかも載っていたのかも。剛くんの体重が軽すぎる、と激震しつつ、井ノ原くんは5月17日生まれであることを知りました。運命じゃん!私は口には出せませんでしたが、そう思いました。だって十数年生きてきて、初めて自分と同じ誕生日の人を見つけたんですもの。それが好きなグループのメンバーだったら尚更のこと。神様が、「貴方はV6を応援し続けなさいね」と言われているようでした。

記憶が前後するのですが、中古ショップで「Project V6」を買って、弟に頼んでゲーム機を借りたこともありました。ダフ屋と戦う私、ことマネージャー。弟が隣でゲラゲラ笑っていました。坂本くんは休みの日にプラモを作るのか、なんて豆知識を得たり、井ノ原くんに目薬のCMのオファーが来たり。

中学校1年生の夏休み。とうとう私は V6のコンサートに現地参加しました。

三宅くんのうちわを買って、一緒に行った友達は「井ノ原くんの歌い方が最高に好き」という理由で井ノ原くんのうちわを持ちました。

オープニングで 6人が出てきた時「同じ空間で呼吸してるー!」という事実で感極まっていました。とにかく幸せだった。こんな幸せなことあっていいのかな!と思うくらい。そうして体感時間5分くらいの私の初めてのコンサートが終わって、クタクタなのにテレビを見ていたら「錦鯉」というドラマがやっていました。当時「演技者。」という深夜番組があって、ジャニーズのアイドルたちが1ヶ月単位で様々なドラマに取り組む番組だったのですが、東北の田舎でもやっていたんです。週遅れだったかもしれませんがちょうど私がV6のライブ見たてホヤホヤの時に、坂本くんと長野くんが「錦鯉」というドラマに出演していたのです。「運命じゃん!」と思ってテンションそのままに観ました。確か、役どころは、長野くんがヤクザの組長、坂本くんがその組員だったかと思います。内容は細かく覚えていないのですが話が進むにつれ「あ、私、この人のファンだ!」と長野くんのファンになっていました。理由はしっかりとしたものがないのですが、後付けとするならば私はこの時から「ギャップ萌え」をしやすい人間だったということでしょうね。「錦鯉」では温厚な長野くんが声を荒げるシーンもあったり、スーツを脱いだら美しい背中にこれまた威厳をたたえた錦鯉の刺青が彫られているのですから。なのに「学校へ行こう!」だと優しかったりたくさん笑っている印象が強い。

そのまま確か「MOBI」を見たんだと思います。あの頃、長野くんは「食」より「モータースポーツ」のお兄さんでした。マシンや選手について饒舌に語ったり実際に乗って運転する姿はまあ、なんとも「かっこいい男性」でした。これには車好きの両親もちょっと興味をそそられたようで一緒に番組を見ることもありました。

 

中学生の時分というのは、学校では先輩後輩関係も去ることながら、同級生同士も関係性がひねくれたりします。

私もすっかりドツボにハマって部活動の人間関係が拗れました。ちょうど中学2年生の頃だったかな。死んじゃったら楽かななんて漠然と思って、部活をずる休みすることもありました。

そんな時「 V6ネクストジェネレーション」というトニセンのラジオ番組が支えでした。本当に、しょうもないことをトニセンの三人が喋る1時間番組で、しかも地方局でしか聞けない。(今でこそラジコがありますのでどこでも聞けますが)

AM放送のカミセンの番組はザラザラのノイズの中でやっとこさ聞いていたので、そんな手間もなくゆっくり聞けたんですよね。

気持ちが落ち込んで、孤独を味わっていた時にも、トニセンの声は具体的に励ますでもなんでもなく、楽しくお話を聞かせてくれる。聞いているうちに、私もこんなふうに他人と話ができるといいなと思うようになりました。

あー、そうそう。ジャニーズウェブもその頃始まりましたよね。「いのなき」の「赤いドレスの女」をいまだに覚えています。三宅くんの誕生日に井ノ原くんが赤いドレスを着てお祝いをするという話。それから長野くんの「クルマでグルメ」三宅くんの「にこにこ健」坂本くんの「M gallery」夢中になって読んでいて、勉強しないから母にケータイを取り上げられたこともありました。受験生でしたしね。当然ですね。

 

高校1年生の秋。V6は10周年を迎えました。学校へ行こう!の 6人旅はお腹が捩れるほど笑ったし、「ホールドアップダウン」が公開されました。友達とバスに乗って小一時間の小旅行を経た先にある映画館まで足を運びました。田舎辛い、と思いましたね。でもその前の「ハードラックヒーロー」は地方で公開されていなかったのでそれに比べたら嬉しい限りです。10周年のライブも見に行くことが出来ました。友達と「手旗信号のところ、めちゃくちゃ可愛いよね!」と大盛り上がりしました。そう、生shelterを見れたの、一生の思い出かもしれない!

高校2年生の夏もV6のコンサートに参加できました。初めての、聖地 代々木!でかい!広い!電車移動で母は疲れて開場まで表参道にあるオシャンなカフェでアイスティーを飲みました。コンサートの記憶は断片的で、三宅くんが「親指さがし」の宣伝をしていたこととか、グッデイ!をキレキレに踊っていたこととか、長野くんのために井ノ原くんが作った「つぼみソング」がかわいかったことくらいしか思い出せない。あれ、岡田くんがピアノを弾いていたのはこのコンサートじゃなかったかな?円盤になっていないのが悔やまれますね。円盤による記憶の補完ってめちゃくちゃありがたい。

さてさて、そんな嬉しい思い出を作れた反面、弟の野球が忙しくなりました。それに伴って、私も家に帰る時間が遅くなって「学校へ行こう!」が見れないなんてことが増えてきました。それと代替えするように私はアニメや漫画にハマっていったのです。時折、シングルを買ったり、アルバムを買ったり、DVDを買ったり。

そうそう。ちょうどこの頃、ファンクラブ会員宛に、井ノ原くんからのお手紙が届きました。結婚の報告、V6から初めての既婚者。それは学校へ行こう!でも放送されました。ファンに一番に伝えたいという井ノ原くんの思いが溢れた発表で、私は単純にすごいなあと尊敬しました。それと同時に、 アイドルも一人一人、ライフイベントを迎える私たちと同じ人間である、ということを実感しました。悲しいとか、そういうことはこれっぽっちもなくて、ただただ、 V6というアイドルグループからそうやって着実に人生を歩もうとしている姿を見て、嬉しく思えたのです。

そうして私は受験生となり、志望校に合格して、念願の上京を果たしました。

思えば、コンサートに行きやすいようにするために関東の学校を目指していたのに、すっかりその目的は忘れ去られていました。

でも、なんででしょう。帰巣本能とでも喩えましょうか。年末の歌番組を眺めているとV6の姿を見て「ああ、 V6のライブ見たいな」と気持ちが戻って、DVDを見るなんてことをずっと繰り返していました。

 

看護学校に進んだ私は、目まぐるしい実習の最中、聞いていた音楽は紆余曲折せよV6に帰ってくるのです。特に、最終学年のギュウギュウに詰め込まれた実習へ向かう途中「サンキュー! ミュージック!」を聞いてよく励まされました。ハニビですらピンとこなかったのに(!)

未来を行く自分からの励ましのメッセージ、そこに音楽があること。単純明快な歌詞とV6の程よく力を抜いた、爽やかな歌声。本当に、助けられました。今思い出しても泣けてくる!ほんっとうにきついんですよね、看護実習て!!!

そんなんで、乗り越えて、国家試験になんとか合格して。

そういえば、Ready?コンに参加するであろうファンの方を東京駅で見かけた時「そうだ、コンサート行きたかったんだよな」と思い出したのでした。

 

2011年大地震と入職を経て、私は5年ぶりにV6のコンサートに参戦しました。ちょうど10月9日。長野くんのお誕生日の回でした。うっわ、すっごいかっこいい、意味わからん。なんて、本当、記憶を失うほどに楽しくてキラキラした時間を体験しました。あの初だしスパノバを現地で見ることができたのは何事にも変え難い最高の瞬間でした。友達がグッズも可愛くていいね〜なんて褒めてくれたのも覚えています。

この頃のV6、試行錯誤をしていていいなあと思っていました。セクバニ然り、キーポン然り。バリバリとか。アルバム「Oh my goodness」その影響を色濃く反映していると思います。井ノ原くんや三宅くん、森田くんや長野くんが楽曲をプロデュースするのも初めてでしたね。V6しか知らないのでなんとも比較はできないのですが、彼らは「うちのメンバー最高なんで、うちのメンバーが輝けるものを作りたい」みたいな気持ちが以前から強かったように思います。はっきりとした先駆けは2008年の「VIBESコン」なんでしょうか。ライブ演出を岡田くん、衣装を森田くんが担当していましたね。

2013年の「OMGコン」は人生で初めての多ステというものにチャレンジしました。代々木と仙台。セットリストがちょっと変わっていたり、舞台装飾が変わっていたり、とツアーの中で色々変えて行っているんだなあというのを知ることができました。

残念ながら、私がV6に会いに行けたのはこれが最後となってしまいました。(ここから長い長い2次元オタク人生が始まる)

 

気づいたら20周年を迎えていて。20周年コンサートはリボンシャワーを見て大号泣。2016年は長野くんがご結婚され、ベストアーティストで報告していて本当に嬉しく思った。国分太一くんが言っていた「長野くんの幸せは事務所の幸せ」まさしくそれ。世界一幸せになってほしいと心から願った。

2017年の「ONESコン」はまた新しいV6が見えてこの人たちはどこまで行くんだろう、きっとまだまだ行くんだろうな、と期待と安心を抱いていました。

2020年25周年ライブ。コロナ禍で行われた配信ライブ。どんなふうにするんだろうなんて軽い気持ちで見たら、前回よりもさらに進化したV6がいた。構成も楽曲も、衣装も。そう、なんだか衣装がすごかった。後から「Ride  on Time」でたくさんこだわっているのを知った。水の中での「TL」のダンス。メンバーみんなが身体を酷使しながら作り上げていた。その姿を見てしまうと、もうやめたっていいんじゃないかと思った。十分頑張ったのでは、と。それでもライブ当日V6は「やっぱりファンに会いたいよね」「有観客でやりたいね」と言い切っていたのだ。

この配信ライブを見た時「 V6というグループは完成に近づいていて、この先緩やかに存続しながら5年後の30周年に有観客でライブができたらいいんじゃないか」と思った。

この時期には解散が決まっていて、多分発表時期とか準備とか水面下で色々と動いていたんだろうなあと今振り返る。そんなことは微塵も感じさせない。進化を遂げ、まだその先を見せながら、 V6を箱にしまう作業を同時進行させていたのだろう。

本当に、すごく素敵な人たちだ。

3月12日の解散発表。仕事中だった。頭が真っ白になった。同時にいつか来る日が、今日だったのだと思った。

それからの時間は今まで以上に丁寧に、丁寧に生きているように見えた。V6は誰よりもV6を愛していて、だから大切な宝物を綺麗なまま保存できるように箱にしまったのだろう。

途中2次元オタクを挟んだけれど、2次元の作品ですらこんなに綺麗に終われることはあまりなくて、なのに、先の予見できない3次元でV6は綺麗に風呂敷を畳めたこと、その時間に立ち会えたこと、これだけで私は現世を生きている価値があると感じる。

 

11月1日のラストライブ。私はもうMFTPで画面が見えなかった。もう、6人でこの曲を歌って踊ることがないのだと、頭をとんかちで殴られたような感覚に陥ったら、涙が止まらなかった。それでも6人は時間を止めなかった。今までのV6を挟みながら新しいV6を展開した。95grooveをラストの曲に選んだ意味がわかった気がした。

森田くんの「僕は幸せでした」に集約されていると思う。ファンはアイドルの口からその言葉が聞けただけで十分だった。

(その後の健くんのラジオで「死ぬわけじゃないし!」と乗り込んできた井ノ原くんと長野くんに嬉しくなったし、坂本くんの「またこの景色を見れるように頑張りたい」もただ、ただその夢が叶ってほしいと思う)

 

私にとってV6は夢を見せるだけのアイドルじゃなかった。アイドルが、大人になって、一人の男性としてどう生きるかというのを背中で見せてくれる存在だった。距離は遠くて最後までキラキラしているのだけれど、ちゃんと地面には影がある。そういう存在だと思う。私は、V6から生き方を学んだと思うし、これからもきっと学んでいくのだと思う。

 

26年間、お疲れ様でした。

そして、V6の思い出を抱きしめながら、これからも応援していきます。